SRID Newsletter No.415 August 2010
援助じゃアフリカは発展しない* 静岡県立大学国際関係学部
小浜 裕久 Dambisa Moyo, Dead Aidのメッセージは、一言で言えば、「援助じゃアフリカは発展しない」ということで、それをそのまま邦訳の書名にした.もう少し丁寧に言えば、「これまでのような援助を続けてもアフリカに経済発展をもたらすことはない」ということだろう.このような主張は、著者ダンビサ・モヨのオリジナルではない.本書の初めの献辞にあるように、ピーター・バウアーなどはその代表選手だろう.
本書を学術書のように読んでは楽しめない.分析の枠組みがどうだとか、方法論がどうだとか、データの扱いがいいとか悪いとか、そんな気分で読んでは面白くない.ニーアル・ファーガソンが「序文」で言っているように、本書は「劇薬」なのだ. ジェフ・サックスであれ、ビル・イースタリーであれ、ボノ(Bono)・ゲルドフ(Geldof)であれ、アフリカの人たちの暮らしがよくなることを望んでいることは間違いない.違うのはアプローチだ.筆者(小浜)の立場はサックスやボノとは違い、イースタリーに近い.まあ考え方が近いからビルの本の翻訳もしているし、個人的にも親しい.彼が東京に来ると呑むこともあるし、去年11月は、「昨日アフリカから帰ってきた」と言うビルのオフィスでエチオピア・コーヒー を飲みながら「いかに世界銀行・IMFの改革論議が問題か」といった話をして盛り上がった.そのせいかどうか、ビル・イースタリーの評価が甘いと浅沼さんに言われている. サックスたちは、よく知られているように、「援助ビッグプッシュ」派だ.援助を大量に注入すれば、貧しい国の発展が始動する、という考え方だ.2005年7月のグレンイーグルズ・サミットの援助倍増宣言にも影響を与えた.サックスの考え方を理解するには、彼の『貧困の終焉-2025年までに世界を変える』(The End of Poverty)が便利だろう. もともと「ビッグ・プッシュ」とは、「途上国が離陸して持続的経済成長経路に乗るには、急速な工業化と経済インフラ整備のための大量投資が必要である」という開発理論である.『貧困の終焉』でサックスは、大量の援助資金を投入することによって「貧困の罠」から脱することが可能であると主張する.家計が貧しいと家計貯蓄もないし税金も払わない.その結果、公共投資もできず、人口増加や減価償却もあるので、1人当り資本ストックが低下し、マイナス成長となり、その結果、家計はますます貧しくなる.これが「貧困の悪循環」、「貧困の罠」である. 援助が大量に供与されると、1人当り資本ストックが増加し、経済が成長し、家計が豊かになるという.もし大量の援助が供与されしかも長く続くなら、資本ストックが上昇し、家計を生存維持水準から引き上げ、貧困の罠から脱することが出来ると説明されている.確かにすべてがうまくいき、大量の援助が供与されれば、貧困の罠から脱することが出来る国がある可能性はあるが、どの国でもうまくいくというものでもないだろう.サックスの議論は「メカニカル」だ. サックスの議論に対してニューヨーク大学のビル・イースタリーは懐疑的だ.これまで50年間、先進国は2.3兆ドルもの援助を供与してきた.まさに援助の「ビッグ・プッシュ」があったにもかかわらず、真に援助を必要としている人々に援助資金は届かず、貧困の罠から脱することが出来なかったではないかと言うのだ. この批判に対して、サックスも「イースタリーは、『何も出来ない出来ない経済学』のチアリーダーだ」と感情的に反論している.何もしないこの瞬間にも、アフリカでは人が死んでいるのだ、と言う.このサックスの批判に、イースタリーは、「サックスが簡単だと言うことをこれまで何十年も、なぜ実現できなかったのか説明してほしい」と問いかける. 以下、この論争を考えてみたい.ビルが世銀を辞めた、あるいは「追われた」のは二〇〇一年七月に彼が『フィナンシャル・タイムズ』に書いた「発展の失敗─これまで貧しい国へ巨額の援助が供与されたが、発展は実現してこなかった」という記事が原因ではないかと思う.タイトルからも分かるように、この記事の主旨は、「一九六〇年代以来、先進国、IMF、世銀は、一兆ドルもの援助を供与してきたが、貧しい国を豊かにするという目的を達成できなかった」というものである.ある世銀の友人は、「世銀を批判するのはいい.でも、批判は世銀を辞めて外からすべきだ」と不快感を表していた. 『エコノミスト 南の貧困と闘う』(The Elusive Quest for Growth)の「プロローグ」の中でビルは「世銀がいいのは、自分のように新しいことを考えていろいろ主張する人間の研究の自由を奨励してくれるし、世銀の政策に対する内部の議論を抑えようとしないことだ」と述べているが、必ずしもそうではなかったようだ.なにしろこれだけ思い切ってこれまでの援助がまったくの失敗だったと論じたものは同書をもって嚆矢とする.著者イースタリーの答えは、「人はインセンティブに反応する」という人間の本性・経済学の基本原理を活かす様に政策を変えなくてはならない、というものだ.単純明快、だからこそ本質的答えなのだ. 『エコノミスト 南の貧困と闘う』は、経済発展そのものを「人はインセンティブに反応する」という座標軸で書かれたもので、援助は分析対象の一部であった.『傲慢な援助』(The White Man’s Burden)は、それを進めて、「サーチャー」対「プランナー」という座標軸で、援助そのものを正面切って論じた.この本は、援助の有効性を「インプットで見るのかアウトカムで見るのか」という論争の書である.ここがビル・イースタリーとジェフ・サックスの論争のポイントである.「援助予算を増やせば貧困削減が実現出来る、貧しい国の人たちを幸せにすることが出来る」と考えるか、「いくら援助を増やしても、今までのやり方では、経済発展は実現しない」と考えるかの論争だ. 援助資金が、あるいは援助物資が中央政府に届いたとき、どこの国であれ、その大半(例えば、90%)が真に援助を必要とする貧しい人々に届くというなら、「インプットで見るのかアウトカムで見るのか」という援助の有効性論争はあり得ない.例えば、マラリアの薬を援助したとして、どこの国でもその九割が、農村の貧しい子供たちに行き渡るというなら、抗マラリア薬の援助予算を増やす(インプット)ことはマラリア撲滅(アウトカム)につながる.しかし、現実はそう甘くない. ポール・コリアーが言っているように、中央政府に予算があってもそれが本当に必要をされるところに大半が届くと考えるのは非現実的だ.チャドのケースは信じられないくらい印象に残る.チャドの財務省が農村の診療所に対する保健衛生予算をつけたという.その予算のどれくらいが農村の診療所に届いたかということ調べた所、2004年の調査で、驚くなかれ、一パーセントにも満たなかったという(The Bottom Billion, p. 66).曾野綾子に言わせれば、「ODAとして供与される資金のかなりの部分が相手国の指導者の懐に入ると考えるのが普通」だということになる(『貧困の僻地』新潮社、2009年、134頁).筆者は、指導者だけでなく、重層的に様々なレベルの政治家官僚たちが、間で援助資金を抜いていると思う.問題は国によって腐敗の程度がかなり違うと言うことだ. 経済発展を実現する原動力は、間違いなく自助努力だ.援助の役割はそれを側面から支援することだ.途上国の人にはいつも「自助努力が原動力だ」と言うことにしている.2009年の4月にもパレスチナに「戦後日本の経済復興とその教訓」について話しに行く機会があった.その時も、多くの若い人から「日本はパレスチナに何をしてくれるか」という質問を受けた.答えは決まっている、「経済発展の実現はあなた方自身の努力にかかっている.もちろん、日本も戦後復興に当たって、アメリカや世界銀行などの援助を受けたので、出来ることはするが、まず自分でどうするかを考えないと、発展は出来ない」.日本の援助の基本姿勢は、「自助努力の側面支援」だ.それは、政府が「ODA大綱」を決める以前からはっきりと表明していた. ルワンダのカガメ大統領は、『フィナンシャル・タイムズ』への寄稿で、Dead Aidを論争的な書物で、今日の「援助文化」を正確に評価している、と引用している(Paul Kagame, “Africa has to find its own road to prosperity,” Financial Times, May 7 2009).カガメ大統領は、これまでの援助に感謝しつつも、援助はその目的を達成できていないことも多いし、貧困問題や脆弱な社会の問題に対処出来ていないという.自分たちが達成したいと考えている目的を達成するために援助してほしいと言う.我々以上に自分の国を知っている者はいないのだし、我々以上に何がいいことかを知っている者はいないのだと言う.ルワンダは次の世代までに一人当たり所得を4倍にするという高い目標を掲げていて、そのためには企業家精神が要だと言うのだ.このような考えに立っているからこの書を引用したのだろう. カガメ大統領は、これまでの援助のやり方では駄目で、民間の活力を活かすことが肝心である、と言いたいのだろう.筆者は「戦後日本の高度成長は、産業政策のおかげではなく、民間の活力のなせる技であった」と考えている. 著者ダンビサ・モヨも、『ガーディアン』のインタビューで言っているように、これまでの援助がすべて駄目だと言っているわけではない.モヨが言うように国際資本市場で資金調達するったってそんなに簡単なことじゃないさ、と批判する向きもある. まあ、「劇薬」だと思って読めば、Dead Aid は楽しめる. *山下さんからNLに寄稿するように言われたけど、新しいことを書く元気がない.Dambisa Moyo, Dead Aid: Why Aid is Not Working and How There is a Better Way For Africa 2009(Penguin; Farrar, Straus, and Girouxなど)の翻訳『援助じゃアフリカは発展しない』(東洋経済新報社、2010年)のために書いた「訳者あとがき」を再構成したものでもいい、と山下さんが言ってくれた. |