SRID Newsletter No.414 July 2010 アジア起業家村発進 NPO法人アジア起業家村推進機構
小林 一 3月31日付で、独立行政法人・都市再生機構を定年退職しました。1974年地域振興整備公団入団以来36年間、全国の地方都市でのニュータウンや工業団地開発、最終場面では、中心市街地の活性化など都市再生の仕事携わってきました。これからは、いわば生業となった「地域づくり」の仕事を様々な形で展開していこうと思っています。 その中心となるプロジェクトが、川崎市で進められているアジア起業家村、6月19日にその推進主体であるNPO法人アジア起業家村推進機構の常務理事に就任しました。内容はホームページを御覧になっていただくとよいのですが、7年前、小生が地域公団時代の最後の仕事(川崎市からの受託)で構想を提案したもので、NPOができて5年、小生は盛岡や大阪にいて、一会員としての参加していたのですが、定年退職を機に本格的にNPOの活動に関わることとなったものです。 PL(Planning Liability)というところです。 http://www.asia.or.jp (アジア起業家村とは) アジア起業家村の考え方は、高齢化社会、成熟社会に入った日本の新しい活力の源泉をアジアから日本に来て企業で働いている方々や留学生に求め、彼ら彼女 たちに起業してもらい、同時に出身国での事業展開につなげてもらえればアジアの発展にも寄与することにもなるだろうというものです。将来的な場所としては、国際化する羽田空港の多摩川を隔てた対岸、旧いすず自動車の跡地(神奈川口といわれています)が考えられています。神奈川口といわれているのは、空港とこの土地とを結ぶ橋(またはトンネル)の構想があるからで、橋がかかればこの土地がアジアに一番近い日本になるというわけです。 構想が唱えはじめだされたころ、就任したばかりの阿部・川崎市長も、昔(20年前)石川県の商工部長時代には基本的に欧米を中心とした外資系企業誘致に尽力された方で、今回は「もはや脱亜入欧の時代は終わった」といって、この構想を全面的に推進されています。天の時、地の利、人の和がそろったプロジェクトということもいえます。 地域づくりという観点からは、石油化学、鉄鋼といった重化学工業中心の京浜工業地帯の構造改革の先駆けというような位置づけも考えられます。川崎市は、そうした企業集積、技術集積をふまえたライフサイエンス、環境産業での発展のシナリオを考えていて、起業家村もそうした業種を中心とした起業を期待しています。機能的にはまずは起業家のための貸しオフィスが中心となるのですが、重要なのは入居企業の活動をサポートする機能、こちらはベンチャービジネスの経営、税理、マーケティングなどさまざまの分野の方々よりなるNPOの会員の役割になります。起業家村という名のとおり、村で働くアジア人の方のための居住環境の確保ということも重要な仕事の一つです。現在は市内のアパート等を紹介することが中心ですが、将来的には、またまった住宅地の提供というか、コミュニティづくりというところまで進んでいければと考えています。 (30社が進出) すでに、JFEや神奈川サイエンスパーク(KSP)のご協力をえて、浜川崎にあるJFEの京浜ビルのワンフロアを使って卒業組も含め30社近くが起業しています。KSPは、1986年に川崎市溝の口に誕生した、インキュベーター機能を備えた研究開発型の企業向けの日本初の本格的なサイエンスパークで、アジア起業家村はそのいわば国際的に進化したものといえるかもしれません。推進している方々は当時KSPの創設に関わった方々も大勢いらっしゃいます。我が国最大の産業地帯である京浜地区ならではの産業進化の布陣が整っているといってもいいかと思います。ホップ、ステップ、ジャンプということでは、羽田空港の国際空港としての本格操業を踏まえて、神奈川口への注目度もより高くなるなかで次のステップをどう作り出すかが仕事になります。 (最後のチャンス) 前線に復帰して印象的なのは5年間の情勢の大きな変化です。提案した頃の売りは、アジアへの近接性は当然として、1 京浜工業地帯の技術力 2 首都圏3千万人の消費者 3 ジャパンマネーといったことでした。 たぶんこの場所が起業家からみてアジアでも一番輝いていた場所だったと思うのですが、その後の中国やアジア各国の発展状況を見ると、上海、北京、シンガポール ・・・ 起業家の方々からみると神奈川口は必ずしもNo.1の場所とはいえなく なってきたように思えるのです。日本の経済の輝きが残るうちの最後のチャンスという感じもしています。 逆に、アジアの各地で起業家村を創るというシナリオ も考えられます。今回理事になってくださった方のなかには深センでテクノセンターの事業を成功させ、「和僑会」を創設した川副さんもおられます。そもそもこの構想を実現するための地元での受け皿となったのは、20年くらい前からアジアに進出したもののいろいろの問題に直面している主として神奈川県の中小企業の方々の情報交換等を行う場として設立された海援隊21という団体です。当時も、海外でビジネス展開もよいが、空洞化を防ぐという意味では、発展著しいアジアの企業や人材を日本に誘致したらどうかということも話されていたところで、この構想がすんなり受け入れられたものだと思います。この1〜2年、自動車産業や電気・電子産業からアパレル産業までアジアへの進出が加速化された状況もあり、海援隊21の役割もが再び見直されているところもあり、関係者の間での急変するアジアのビジネス環境についてのセミナーや勉強会も頻繁に開かれています。小生自身もフリーの地域づくりプランナーということで、同業者たちと話をしていても、海外での産業団地や新都市開発の話が話題になります。アジアの起業家村が国際的なネットワークとなって、日本とアジアの経済・産業の進化を促進することが期待されます。 |