SRID Newsletter No.410 March 2010

SRID35周年記念シンポジウム
−来るべき開発援助とは−

   SRID設立35周年記念シンポジウム

日時:2010年2月28日(日曜日)
会議場:学士会館302号室
 
  プログラム
 13:00

 開会の挨拶
 SRID代表幹事 大戸範雄
開会の言葉
 高橋一生 SRID会長、国連大学客員教授
 
  13:20  基調講演「次世代への援助の潮流」
荒木光弥 SRID副会長、国際開発ジャーナル主幹
  14:20   質疑応答
  15:00  パネルディスカッション「来るべき開発援助とは」
司会:高橋一生
パネリスト:
ジャーナリストの立場から 荒木光弥 (国際開発ジャーナル)
ODAの立場から 神田道男(JICA専門技術嘱託)
国際機関の立場から 萩原孝一(UNIDO工業開発官)
NGOの立場から 池田晶子(21世紀協会理事長)
開発コンサルタント 太田陽子(Oriental Consultants)

 
 17:00   記念シンポジウム閉会
懇親会(学士会館301号室)
 



開会挨拶
SRID代表幹事 大戸範雄

 開発研究者の情報交換や人的ネットワーク形成の場としてSRIDが創設されて35年がたち、国際開発の状況や、それをとりまく国内外の情勢も大きく変わってきた。アジアを中心にインフラ整備と人材開発を重点的に実施してきた日本のODAも、近年現地での有用性が疑問視されるなど、批判の対象になっている。ODA以外にもNGO、民間財団、企業、地方自治体などが様々な形で国際開発に参加するようになった。
このような状況のもとで、果たしてSRIDは設立当初の役割を果たしているのか、存在価値があるのか、という問題意識のもとで35周年記念シンポジウムを開催することにした。本日の荒木副会長による基調講演、会員によるパネル討論を通じて開発支援の政策提言をとりまとめ、SRID再生のきっかけとしたい。

開会の言葉
SRID会長 高橋一生

SRIDが設立された35年前を振り返ると、1975年は米ソ間のデタント第2波の最中で、それを具体化させるための協議がヘルシンキ条約という形をとった年である。1973年には石油危機により世界経済が大混乱となりG5が1975年に始まった。これを契機に「南北対話」が「南北交渉」に転換され、国連総会やCIEC(国際経済協力会議)できつい交渉が展開され始めた。この頃はODAが花形の時期であった。日本でも1974年に2、3の機関が合体してJICA(国際協力事業団)ができた。
ヘルシンキ条約は東側を崩壊させるカギとなった。東側は体制を維持するために西側との経済協力を求める一方、西側は人権面で明確にアドバンテージがあると考えていた。政治面では両体制が共通の利益として協議を行うことに意義を見出していた。この3つの要素を組み合わせたのがヘルシンキ体制であった。1973年からOPECパワーが台頭し、牧歌的な経済協力は終りを告げた。この頃はオイルショックに対するMost Seriously Affected Countriesを「第4世界」とよんでいた。それがやがて今日のテーマである「脆弱国家」に結びつく。
DACは2007年に脆弱国家支援に関するガイドラインを採択した。世銀の“世界開発報告書2010”のテーマは紛争と開発である。中心テーマがODAである。今日ではODAの3要素である、@途上国に対する政府間トランスファー(G to G)、A非軍事目的、B譲許率が25%以上(市場金利を10%で換算)、のどれも意味がなくなっている。NGOを経由するODAが増え、Decentralizationで政府の役割が地方自治体に移管された。開発資金は民間企業へ流れており、G to Gの条件が崩れている。
非軍事の条件では、平和構築分野の8割が軍事支出である。そのうち何パーセントをODAにカウントするかはDACが決めている。国連でも本体予算の3倍がPKO予算である。35年前に想定した状況とまるで違う。Bilateralでも平和構築の軍事的オペレーションに開発資金が使われている。Non-militaryの前提が完全に崩れた。市場金利の低下で世銀IDA(後発国向け融資)の譲許率25%以上の意味もなくなった。3つのコンポーネントが崩れて「ODA」という言葉だけが残っている。
Moyoの著書「Dead Aid」について、BhagwatiがForeign Affairs 2月号に書評を書いている。彼女はザンビア人でハーバード大学とオックスフォード大学で学び、世銀で活躍したエリートである。援助が途上国をダメにしたと指摘している。援助は今や一つの産業となっており、これをすぐにやめると影響が大きいので、5年のうちに援助を廃止すべきだと主張している。書評を通じて大きな反響を呼んだ。
日本はODAの最大ドナーの地位からどんどん落ちている。統計でみると、JINI係数が急激に上がる(所得の不平等が拡大する)とODAが下がる傾向にある。日本はJINI係数が上昇の一途を辿っており、ODAが下がらざるを得ない、という想像もしなかった状況にある。1990年代終わりころには既にはっきりとその傾向が出ていた。途上国からは「もう援助はいらない。むしろ国を毒している」と言われている。さあどうしようか、というのが今日のテーマである。

第1部  基調講演「次世代への援助の潮流」
SRID副会長 荒木光弥
(事務局注)以下の講演要旨は講演者自身が作成したものである。

はじめに
 日本のODA予算は年々厳しい立場に置かれている。2010年のODA一般会計予算は政府原案に従うと約6,200億円ぐらいで、その水準は24年前と同じだ。1978年のボンサミットで福田蔵相がODA倍増を約束して以来、日本は1989年から2000年までの10年間トップドナーであった。ところが、90年代に冷戦が崩壊した。それまで日本は西側の一員として米国との協調路線を守っていればよかったが、トップドナーになっても、援助のリーディング・カントリーとしての役割も果たすことなく時間を空費し、欧米がポスト冷戦を模索しているなか、日本はこれといったポスト冷戦戦略も考えずに、欧米のつくった世界の援助潮流に乗り、漂流してきた。

1. 世界の勢力図の変化
 1964年の第1回UNCTAD(国連貿易開発会議)が開催され、南北問題が鮮明になった頃、世界人口の80%を占める南側(開発途上国)の所得水準は、世界の富の20%を占めるにすぎなかった。ところが、半世紀を経た今日では、世界の富に占める途上国群の所得水準は、かつての20%から40%以上のシェアを占めるようになった。先進国側は逆に、かつての80%の占有率が50%近くまで下降したことになる。まさに、世界的な所得再配分が進行中なのである。
 G7体制も変化している。現在、G7はG20へ拡大しているが、これこそ勢力図の変化を示している。特に、強いアジアの台頭が顕在化している。G20には新たに韓国、豪州、中国、インド、インドネシアが加わった。最近、シンガポールのリークアンユー公共政策大学院院長バブマニ著「New Asian Hemisphere」(新しいアジア半球)が西欧でも話題になっているが、ここでもアジア台頭が強調されている。
 G20の登場は、国を測る基準が今では1人当たりGNIでないことを意味している。人口(輸入市場としての)、潜在成長力、資源力、軍事力などが一種の大国の条件になっているように見える。その点、これまでの「東洋で初めて近代化を果たした日本」という特記事項は通用しなくなっている。
 私たちはこれからのアジアに対して、上から下への垂直的な思考でなく、水平的な思考で交流する時代を迎えているといえる。最近、シンガポール経団連会長のテン・テン・ダール氏に聞いた話だが、グローバル・マネジメントやネットワークに強いシンガポールは日本(技術力)と組んでインドで水ビジネスを展開しているが、次はシンガポール、日本、インドの三者が組んでアフリカや中東で水ビジネスを拡大することを考えているようだ。シンガポールは日本の協力で導入した経営「カイゼン」5S運動を7Sに発展させて、海外事業に適用しているという。まさに、日本の知見は世界中に浸透しつつあるといってよい。日本が30年前に協力したSIRIM(マレーシア工業標準研究所)も、他国を支援するほどに成長している。そこで、言いたいことは一つの援助プロジェクトの評価結果が日本との関係において継続すべしと出ても、5年を一つの協力期間に定めて、その延長を認めないという戦略なき協力を考え直すことである。

2. 日本のODAの現状認識
 日本は70年代に「エコノミック・アニマル」といわれ、東南アジアでは反日運動が起こった。日本はその時を契機に汚名挽回のために、それまでの国益重視を修正し、アジアの人びとを意識する援助へ転換した。このように、日本のODAの歴史を回顧すると、日本のODAも時代によって考え方、方針を少しずつ変えている。60〜70年代初めの輸出振興に寄与するという国益重視のODAは、80年代後半からは国際貢献型に変わった。つまり、国際貢献も立派な国益であった。
 トップドナーの10年間は、厖大な貿易黒字の世界への還元という形の「資金還流計画」、1990年の湾岸戦争などへの国際貢献という名目で多額の戦争経費を拠出した。これらも米国から求められた「バードン・シェアリング」の一環であった。対米協調という意味の国益だった。その後の日本の援助方針を見ると、MDGsといった援助潮流に従うだけで、これといった特長ある政策は見受けられない。しかし、今やこれだけODA予算が縮小すると、援助対象地域もグローバルな展開が不可能になりつつある。その意味でもう一度、ODAがアジア回帰する時代を迎えているといえるであろう。ただそれは、アフリカを無視することではない。日本がこれまで築いてきたアジア、特にASEANにおけるODAアセット(日本の知見、人脈など)を活用して、ASEAN中進国、準中進国と組んでアフリカ支援を行うことを示唆しているのである。コスト面でも恐らく、新規に始めるより3分の1ぐらいの節約が可能となろう。
 ただ、その一方では、従来型の「無から有」を創造する協力から、「有から更なる有」を産む協力へと質的転換を図る必要が出てこよう。つまり、日本側の援助レベルを知的にも技術的にもかなりレベルアップしなければならなくなろう。

3. 再びアジア回帰へ
 日本はアジアとの関係を再び考える時代を迎えている。民主党政権も「東アジア共同体」を構想している。日本は新しいアジアとの新しい関係のあり方を考えなければならない。それはアジアとの関係を単なる市場として考えるのではなく、「共生」、「相互補完」という発想が必要になることを意味している。ある人は「日本はアジアによって生かされる」という。少子・高齢化の日本は、単に労働力のみならず、知的な人材までアジアから受け入れなければならない時代に突入しよう。
 一方、アジア側に立てば、日本に対する見方は厳しい。私たちの、明治以来の脱亜入欧、東洋で初めて近代化に成功し、欧米諸国(列強)の後塵を拝してきた歴史がアジアの見方を厳しくしているといえる。前出の著書「New Asian Hemisphere」(新しいアジア半球)では、日本語出版に当たり、その解説をJICA理事長の緒方貞子さんが書いているが、その内容は、これからの日本、さらに日本の国際協力にも深く関係している。私が注目したのは、緒方理事長の着目点である。
 第1点は、日本はアジア半球に含まれない。つまり、日本は弱体化する西欧クラブの一員とみなされていること。第2点は、世界人口の12%を占めるG7の国々が、残る88%の政治経済動向を決定し、それが“正統”であると認識されてきたという事実を“西欧世界支配の神話”として葬る。第3点は、日本はアジアのリーダー、アジアと世界との架け橋になれない。架け橋になるには西欧とアジア双方の世界にどっぷりつかってきた経験が必要。第4点は、日本はアジアを見ずにやり過ごしてきたところを、アジアを直視し、支援するのではなく、相手からも倣うという姿勢が求められる、である。

4. 日本の援助スタイルの変革
 私はJICAから依頼されて、昨年11月から12月にかけてASEAN 3カ国、30〜40年以上の歳月を費やした3つのプロジェクトを、温故知新という切り口で訪ね、取材して、現在に通用する新しい解釈を探った。私たちは「日本の知見、人脈」を発見する旅と称した。3つのプロジェクトは、@今年8月で50周年を迎えるタイのモンクット王工科大学、AマレーシアのSIRIMといわれる工業標準研究所、Bシンガポールの生産性向上プロジェクト。結論からいって、30〜40年たっても日本の知見、人脈は健在だった。かつてのわが国ODAの財産(アセット)は今も立派に育っていた。そこで、私たちは次のような提言を考えた。
(1)「連携型国際協力」のすすめ
 ASEAN中進国あるいは準中進国と共に考え、共に行動する日本の「連携型国際協力」を提案。これは、かつての南北問題から生まれた先進国が途上国を一方的に援助するというコンセプトではなく、深い信頼関係に根ざし、時間をかけて形成され、蓄積されたASEAN諸国のODA「財産」(アセット)を、成長しつつあるASEAN各国と連携意識をもって、他の途上国を援助するという新しい援助コンセプトを提示するもの。地球環境問題に向けても、「連携型国際協力」は世界的なモデルになり得る。ASEANとの「連携型国際協力」のもう一つの側面は、@日本とASEANとの連携は、地勢学的にも、政治・経済的にも“共生”という点で重要な意味をもつ。日本とASEANとの相互補完関係は、少子・高齢化に向かう日本にとって、避けられない命題である。A中印が大きく成長するなかで、日本とASEANとの連携協力は、ASEANの存在感を高めることにも役立ち、アジア地域のバランスを保つという意味でも重要な視点である。
(2)「ネットワーク型国際協力」
 @ASEANの政策立案協力
   日本と共通のASEANとの政策研究を行う。「人脈形成」に役立つ。たとえば、新しい産業政策あるいは民営化政策、環境政策、少子・高齢化による社会保障政策など。
 A「知的開発協力」のすすめ(知的ネットワークの形成)
   ASEAN工学系高等教育ネットワーク(AUN/SEED-Net)と官民連携による「共同研究基金」の創設を考える。

結論
 ODAはこのままでは国民の真の理解は得られない。時代は再びODA国益論を求めている。しかし、その方法は昔に戻っての輸出振興への寄与ではなく、日本との関係を強化する「人脈形成」を目指すものでなければならないだろう。今日はその論議に火をつけたしだいである。
(荒木光弥・記)

質疑応答

福永 日本の技術的、知的能力は一流だと思っているが、要素技術に偏り過ぎている。
例えば、淡水化プラント売り込みの場合、単品としての浸透膜技術は世界一であり受注出来る反面、包括的なプロジェクト・マネジメントに欠けており、プロジェクト全体受注が日本は不得手である。日本人はハングリーでないしディベートも不得手である。本年1月にアブダビで開催された世界最大規模のクリーンテック展示会の会場にムハンマド皇太子が現れた。そのとき彼に近づき直談判しているビジネスマンの中に日本人はいなかった。

荒木 アジアを回ると日本の知的資産の構築がなされていると感じる。タイの電電公社では32歳と34歳の若者が経営陣に加わっていた。彼らは日本に親近感を持っているが、日本の工学を学ぶ一方、アメリカでMBAを取得するなどマネジメント能力を伸ばしている。水の技術をどうやってビジネスにするか。シンガポールではGlobal management、global marketingを生かして日本の技術力とタイアップしているが、残念ながら日本にはグローバル・マネジメントを生かすグローバル・ネットワークが乏しい。

堀内 ODAから離れて話をしたい。日本人とは何かを考えている。1月に韓国の新聞に日本のガラパゴス化が出ていた。インプリケーションは何か。日本は職人芸に満足して世界に出ていかないので心配はない。55年体制で日本の指導者は世界で問題にされていない。日本の政治は利害調整でやってきた。リーダーシップは問題にされなかった。当選回数で首相が決まる。横の人間関係が弱い。常に上下関係でものを見る。アジアに教えてあげるという態度で、対等にものを考えようとしない。援助も現地の要請を聞いているというがショーに過ぎない。会計検査院がどう見るかを気にしている。我が国には本当の意味でシンクタンクがない。援助やアフリカの専門家が耳学問で政策を作っている。利益調整型で知的バックグラウンドに欠けている。われわれが知っているというのは知的傲慢である。

藤村 二つ質問がある。@日本はこれまでアジア重視の援助を続けてきた。投資もアジアが多い。なぜ日本がアジアを見過ごしてきたと思うのか。A国連の南南協力も日本を入れた三者協力でやっている。連携型協力を進めるためにはリーダーシップが不可欠である。政策レベルとマネジメントレベルでころころ人が変わるとリーダーシップを発揮できず、連携型は難しい。アジアではJICAの外に西野先生のようなサポーターがいた。JICAの職員は目いっぱい仕事をしているが、あまり英語でやる仕事が得意でない。自信を持ってコーディネートしないとやれない。何年もやらないと自信のない人がマネジすることになる。対応を考えないと難しい。

荒木 仕組みの限界である。JICAの中には相当語学力があり、その方向に行きたいという指導的若者が10人はいる。そういう人を持ち上げて仕組みを作る。5年でひと括りという慣習を崩す。日本がこれまでアジアでやったことは互恵である。経済的な動機は目に見えるが、見えない型の知的レベルでアジアの一員として世界に向けてものを書く人がいない。カネ、モノは投入したが、ヒト、知的な投入はしなかった。未だにアジアに対し垂直的に考えている。「大東亜共栄圏」的な発想は過去中の過去であり、心してかからなければならない。アジアの若者に技術的スキームは教えても、イコール・パートナーになっていない。口では言っても実態はそうでない。

ケンネ 私は30年間日本と付き合ってきた。日本のODAの事例についてコメントしたい。東工大がもと研修生と協力してタイで工科大学を作った。日本とアジアの交流は深まっている。アフリカをどうするか。日本の対アフリカ援助には無駄が多い。私のようにアフリカのことを一番よく知っているアフリカ人の意見は無視されている。アフリカは日本がカネを持ってくるのでそれに期待している。日本がODAで使ったカネは日本の大学、学校、病院との連携がなければ無駄になる。TICADはアフリカとアジアの交流を促進するというが、日本は連携型協力でどういう役割を提供できるのか。

荒木 長く援助したところには間違いなくアセットが残っている。研究設備や施設がある。マレーシアにはアフリカからもたくさん研修にきている。協力のカウンターパートはアフリカにいる。マレーシアの専門家は日本の専門家にアドバイスを受けている。協力する人をこれから育てるには時間がかかるが、マレーシアには日本で研修を受けた人材が健在だ。マレーシアで勉強した人を活用しなければだめだ。JICAの制度設計をかえなければ活用できない。中国、インドもやろうとしている。箱モノは顔が見えない。援助の欠陥のようにいわれている。病院を作っても医者、看護婦がいない。民主党政権で新しい体制ができるかどうかわからないが、既存の体制を壊してやり直さなければだめである。

ケンネ アフリカには人材がいない。

荒木 日本人はアジアに行ってもアフリカには行かない。アフリカに行く人がいない。

松本 「箱モノ」というときに評価の基準がどうなるか。箱モノと一緒に実際に使う人を育て上げる過程が必要である。クロスチェック、評価団の評価、Terms of Referenceではなく柔軟な基準がいる。もし下級船員の養成が必要ならプロジェクトをつぶしてでもやる。連携型国際協力ではプロジェクトの持つ意味、効果を日本側が蓄積し、評価を海外からもアクセスできるようなネットワークをつくるべきだ。今は経験が個人に蓄積されている。色々な形で評価が利用できる仕組みが必要だと考えている。1つのプロジェクトに2つ以上の評価ミッションが行って調査する。関係者と部外者が評価すべきである。

荒木 評価は第三者がやるべきである。実施主体の外務省が評価を発注するのは不思議。参議院の中にある海外調査室を使って、国会の中で評価をやる。発注先として第3セクターの評価機関設立も考えられる。これが本来あるべき姿である。現実にはコンサルが援助実施の発注者から仕事をいただく形になっており、外務省やJICAの職員が報告書の評価者の見解にまで手を入れることもあるという。ある意味で、今の5段階評価は霞が関の透明性確保に対する貢献で、国民が必要とする情報開示ではない。
(第1部 了)

第2部 パネル討論「来るべき開発援助とは」

司会:    高橋一生  国連大学客員教授(SRID会長)
パネリスト: 荒木光弥  国際開発ジャーナル主幹(SRID副会長)
        神田道雄  JICA専門技術嘱託
        萩原孝一  UNIDO工業開発官
        池田晶子  21世紀協会理事長
        太田陽子  (株)オリエンタル・コンサルタンツ社員

高橋 異なる開発分野の人達にそれぞれの立場で話してほしいとお願いしたところ、共通のテーマを出せとクレームがついた。開発協力は60年間やってきたが、新しくわからない状況もでてきた。「脆弱国家」に対して開発協力をどうするか。いらないという意見も強くなった。週末にDACと現地シンクタンクの共催によりワシントンで開かれた会議で大きな議論になっているはず。何もしないことが正解かもしれない。脆弱国家に何ができるか。今年の世銀レポート「Conflict, Security and Development」では紛争と開発が大きなテーマになっている。その中核が脆弱国家。政府が国民の生活向上に対して、能力も責任も持たない国家のことである。
第1次オイルショックの後、第3世界から脱落した第4世界が形成された。1980年代に世銀・IMFの指導で第4世界が構造調整政策を実施し、80年代の終わりにその効果について評価が行われた。巨額の債務を抱えた国に発動された政策であったが、政治的、経済的にシビアな結果がでた。
@ 債務を抱える前に経済が健全であった国では、構造調整はプラスの効果があったが、前々から問題があった国の経済はさらに悪化した。
A 社会的にはどの国に対してもネガティブな結果がでた。政治的には民主化が進んだ国もあったが、ユーゴスラビアなど崩壊した国もあり、両極端の効果を及ぼした。
B 第4世界に対する結果はかなりシビアである。冷戦の終結により、それまでに蓄積されていた内部矛盾が噴き出して途上国の紛争が多発した。1996年までに一旦徐々に沈静化した。
C 1997年以降、和平合意に達した国でも平和構築がうまくいかず、紛争が再発した。
D 世界が経済自由化のもとで大波に晒された。資源輸出国は持ち直したが不安定。他方、軽工業を推進した国は中国の輸出で潰された。グローバル化の波で世界経済が不安定化した影響は、1970年代にさかのぼる第4世界に対して特に顕著であった。
構造調整政策が及ぼしたこれら5つのインパクトにより、2004〜5年あたりから脆弱国家群という認識が広がった。DACが対応しようとして2007年に10点からなるガイドラインを作り、その実施をモニターしている。DACの「脆弱国家支援10原則」とは次の通り。@現状認識を出発点とする、A危害を加えない、B中心目的は国家再建、C予防を優先、D政治、安全、開発の関係を考慮、E包括的かつ安定的な社会の基礎として無差別を促進、F現地の事情に合わせた優先順位の決定、 G国際ドナー間の現実的な調整メカニズムの受入れ、H迅速に行動し、結果が出るまでコミットを継続、I排除の隙間をなくす、である。
パネラーに脆弱国家群に対する考え方を問題提起していただく。

太田 私は民間のコンサルタントで営業をやっている。SRIDの設立時にはまだ生まれていない。大学、大学院で開発を専攻した。民間企業がプロジェ クトを実施する上で、脆弱国家のカテゴリーについて4点述べたい。
@ 紛争や大規模災害の直後とそれを乗り越えた後は違う。パキスタン、ハイチなど渦中の国と他の国を分けて考える必要がある。アフガニスタンは緊急復興援助と長期戦略を別に考えるべきだ。
A ODAの仕事は国際貢献に加えて、民間進出のカントリーリスクを税制や報酬で多少優遇してコンサルタントにとってもらう側面もある。ブラジルや、タイ・マレーシアの東南アジア諸国では日本企業がビジネスをやることに障壁がない。現にもう海外子会社がたくさん進出している。
B コンサルタントがアプローチしていくような脆弱国家と呼ばれるところは、企業の日本人駐在員が1人だけ(もしくは現地スタッフだけ)しかいないようなところである。政府はリスクテイクをしないままだと現状ではあまりにもインセンティブがなさすぎるので、調査段階でコンサルタントが入りゼネコン、教育機関、業者などと現場で情報交換をしながら、風通しをよくするのが役割である。
C 民間の立場からは政府の職員にもスペシャリストまたはシンクタンクを作ってほしい。霞が関では数年ごとに人が変わり、施設が完成したときには担当者がいない。JICAにも地域的に強い人はいても国に徹底的に強い人がそれほど多くない(JICAの人事制度上しょうがない)。民間ではタイ、インドネシア、マレーシアなどODA畑で成長して来た国に30年選手がいると思う。カントリーリスク軽減の自助努力を促すことは民間でできるので、政府は研究資料や長期的な戦略を提供してほしい。

神田 配布したレジュメに沿って説明する。荒木さんと同じ分野で仕事をしてきたので、基調講演の内容と共通するところが多い。ODAの仕事はDACが規定してきた。脆弱国への取り組みはDACでどう議論するかが重要。
現在の日本の国際協力を見ると「ODA=開発協力」と受け取られているが、1960年代の国際協力の主力は民間であって経済協力と呼んでいた。なぜ「ODA=開発援助」となったのか。東アジア中心の経済協力は援助(円借、技協)、民間投資、貿易が三位一体になってうまくいくというスキームができていた。東アジア諸国が中進国化しつつあり、新しいものを考えなければならない時代になってきた。経済のグローバル化が進み、民間は(マスコミを除いて)海外に出ている。民間の活動地域に即応した経済協力を考えていく必要がある。日本の経済協力は、アジアは三位一体でやったが、アフリカは構造調整の流れ。日本は無償協力、ソフトは技術協力と内容は異なるが先進国から途上国へと垂直的にやってきたという点では共通である。
新たな時代への対応を考えた場合、第1世代のODAから連続的に考えるのではなく、あえて不連続なものとして第2世代のODAを考えてみる。地域協力の推進、第2世代のインフラ、IT関連、環境連携、地域連携など三位一体とは別の観点から考える。なお、脆弱国家は別の対応が必要である。GDP/人が1500ドルになると無償資金が終了する。3000ドルで円借款もやめるのが原則。第1世代は経済的安定とGDP/人3000ドルの開発を目指し、これを達成すると卒業ということになる。第2世代の国際協力では所得が上がっても広域協力的な展開を続ける。DACがODAとして認めるかは分らないが、その場合でも非ODAの国際協力としてやるべきというのが私の考えである。
「平和構築」という新しい分野でJICAも実績ができつつある。これまでと同じ考え方でやっていけるかどうか。第1世代は垂直型であるのに対し、第2世代は極力水平型でいく。まずは一元的に考えるのがよい。第1世代は途上国政府の要請を受け、協力内容を政府間で協議し、ODA事業を大学などと契約して実施する。他方、第2世代は途上国と日本の大学、NGO同士が「何か国際協力をやる」というアイディア、協議が基礎となってファンドを提供するような協力が考えられる。ファンドには民間資金も入れる。中進国からの資金も入れることが出来る。色々なアイディアに沿ってやっていく。もちろん、関係国政府と日本政府が直接やり取りする場合もある。G to Gは残る。
3年程前にインドネシアの大学教育協力のセミナーをやった。西野氏も出席し、15年間やったHEDS(インドネシア高等教育プロジェクト)について説明された。その際、インドネシアから参加したヌー氏(スラバヤ・ポリテクプロジェクトの責任者。スラバヤ工科大学学長となり、情報大臣を経ていま教育大臣。)が「日本のプロジェクトは「G to G」によって最初に関係ができ、「P to P」(Person to Person)を経て、「I to I」(Institute to Institute)の関係ができる。G to Gの関係がなくなってもI to Iは残る。人的ネットワークが構築された例だ」と述べていた。第1世代の協力が、第2世代の協力に発展していくことを示していると思う。

池田 NGOはstate-buildingに関係しないが、脆弱国家の問題には大いに関係がある。やる気のない政府に国民は放置されている。Local governmentがやっていないことをNGOが緊急的にやる。脆弱国家では教育、保健に全く手をつけていない。NGOは長期的なコミットメントをしているので、地域の状況に精通している。地域の事情、ニーズを世界に訴える。サービス・デリバリーとアドボカシーがNGOの役割となる。アドボカシーは対政府、対市民、対世界に行うが、先進国だけでなく、第3世界にも訴えることが大事だ。NGOならではのアドボカシーができるはずである。
ところで、operationにどっぷりつかると全体が見えなくなるので研究も必要である。農業への援助はどうあるべきかなど、研究とサービス・デリバリーの経験を通じて世界に訴えることがNGOのアドボカシーである。また、NGOが現地に入ると日本人がいるだけで悪さができないという効果もある。Watch dogの役割が果たせる。
ローカルなNGOとの協力はもちろん重要である。ローカルNGOと協力して先進国に働きかけたり、水平援助もコーディネートしたりすることができるNGOは、@アドボカシー、A開発協力、B研究、の3点で脆弱国家に貢献できる。

萩原 国連として果たして脆弱国家に対して何が出来たのかを考えるとA級戦犯的な立場に立たされそうで居心地が悪い。脆弱国家とは「自らの手で対応できない脅威に晒されている人のいる国」と定義づけたい。日常的・非日常的な紛争、大規模な災害など様々な要因で多くの人が特殊な状況に追い込まれる。UNDPが177カ国を対象に人間開発指数を発表し、開発度をランク付けしている。試みは評価するが、どのように数値化するかについて賛否両論ある。注目すべき事実は、1980年から1990年の間に指数が下がったのはアフリカの3カ国であるのに対し、その後2004年までに下がったのは20カ国。そのうち13カ国がアフリカの国である。
私はUNIDOでアフリカを担当している。サブサハラ48カ国は例外を除いて脆弱国家といえる。 ボツアナは6000ドルの個人所得を誇っていながら、毎年のエイズ統計では常に1、2位を争っている。エイズ/HIV患者は就労人口の25%を占める。人間の安全保障についてはFreedom from wantとFreedom from fear (fragility) があるが、中核にある諸悪の根源は貧困である。ここでは貧困を脆弱国家のmain playerと位置づけたい。日本の国家予算の4倍に匹敵する2.5兆ドルがこれまで貧困削減対策に費やされている。
構造調整融資、開発融資などは期待されたほどの成果に結びついていない。従来型のアプローチは不十分である。これまでやってきたことがうまくいかない場合には、より一層工夫するか、もう一つは全く違うやり方をする。過去50年の失敗の歴史は後者を示唆している。2000年の国連ミレニアム・サミットでは世界の貧困を半減させる決議を採択した。私的には、もはやこの決議はホワイト・エレファント化していると感じる。達成は難しい。貧困削減のための永続的、効果的な手段が見つからない。
私の意見では、多国籍企業が本来の事業を通じて効果的、永続的な貧困削減を実現する可能性を秘めている。利益追求と貧困削減は両立するか。「傲慢な援助」はことごとく失敗に終わっている。原因はインセンティブを与えるという原理に反していることにある。選択肢を与えない援助、上から目線、「開発援助」の言葉から変えるべきだ。インセンティブの提供にたけているのが多国籍企業である。これまで搾取する一方で、貧困削減に役割を果たしうるという見解はなかった。しかし、今後は企業が持つ豊富な経験、新しい技術を通して貧困削減への役割が期待できる。
UNDPは国際機関、現地政府、NGOの協力を得て、global sustainable businessを始めた。USAID、CSRも積極的に取り組みを始めている。世界人口の半数をはるかに超える貧困人口に対していかなる役割を果たしうるか。多国籍企業は意欲的ではあるが実効性に対する疑問がある。スラム街でのビジネスはイメージがわかない。過去を振り返ると、否定的な問題が後々経営課題の中核にくるという事実がある。企業が利益を追求する中で貧困削減をいかに実現するか。貧困削減がビジネスになるという考えが企業に浸透し、BOPビジネスに関心が集まっている。前例、商習慣、既成概念にとらわれず、新しい発想で取り組むことに期待している。

高橋 荒木さん脆弱国家対策に何か付け加えることがあるか。

荒木 開発のnew wordはBasic human needs「BHN」のようにアメリカ発が多い。クリントン大統領時代のUSAIDでは「貧困削減」と共に「脆弱国家」という言葉が国会対策として出てきた。世界にはうまくいかないことが起きると新しい言葉をつくる知恵者がいる。これまでのMDGsは金融危機以来おかしくなっている。ジャーナリストの視点からすると、世銀、DACはアメリカ政府の代理店のようなものである。貧困問題から出てくるのはテロであり、「人間の安全保障」でなく国家の安全保障の問題である。テロが突っ込んでくる先はアメリカである。アフガン援助は日米同盟という政治的な枠組みの延長上の議論である。日本がアフガン援助を本格化するとなれば憲法問題に抵触する。私は給油で十分であったと思う。紛争国の中に入るのは大変だ。対象国の治安が守られており、生活の向上を望む人が国の中にいることが国際協力の第1条件である。Easterlyは著書の中で、援助物資は10分の1しか住民に届かない。それを放置したまま援助しても意味がないと主張している。再び「脆弱国家」論を持ち出しても混乱するばかりである。

高橋 1994年にオランダ開発大臣のヤン・プロンクが「冷戦後の途上国における紛争は、国の一部では武力衝突をおこしつつ、他の場所は平穏という状況が多く、その平穏な場所に支援をし、紛争地を徐々に押し込める、ということも考えていいのではないか」という演説を行った。冷戦時代は代理戦争がいつ米ソ戦争になるかわからないため、逃げ出すことが知恵であった。今日では70を超える国で紛争が起きているが、まわりには地域的に穏やかなところもある。Peace zoneに対して援助をやり、紛争を閉じ込めることも新しい援助となりうる。その延長線上で脆弱国家論が議論されてきた。

小倉 「脆弱国家支援」という課題については、各パネリストから最近の情況・見解をお話いただき大変参考になった。一方、本日のテーマは「来るべき開発援助とは」なので、このテーマの観点から「脆弱国家支援」を旗印にすることを、国内外の現況からどう評価できるのか質問したい。
国内的観点から云えば、近年、日本のODAは大きく減じており、また、仕分けの対象にもなっている。この理由は大財政難である一方、教育・医療・介護・農業などをはじめとして行政ニーズが多様化しているため、ODAの絶対的必要性は減じていないものの、相対的優先度が低下してきていることにあると思われる。例えば子供手当て予算の5兆円に対し、ODA予算は1兆円以下である。最近老人介護の現場を見たが悲惨な状況である。
また、国際的観点からは、脆弱国家支援の主たる目的は「テロ対策」であり、欧米発の政策である。これに合わせることは、欧米からは歓迎されるし、実施上の抵抗もなく、援助関係者はハッピーに過ごせると思う。しかし、これでは政策は欧米が作り、カネは日本が払わされるといういつもながらのパターンとなってしまわないか。日本はただでさえ、最近、国際社会において存在感が低下しているなかで、このアプローチがどの様に評価できるのか。

河野 コメントは小倉氏と共通する。今日の世界の状況では大破綻が近いであろう。サロン的な感じでどこをどう援助すればよいか、という設定でよいのだろうか。日本は少子高齢化の最先端。国力が低下する中でどう考えるか。神田氏に対する質問であるが、第2世代の援助の必要性をこのように整理した場合、矢印の方向に進んでいくであろうが、東南アジア、中国に対してどうするか。卒業したらさよならするのは良くない。形成されたアセットをどう生かすか。アクターとの連携を具体的に示してほしい。アジアに対する取り組みの中で、ODAはどのような貢献をすべきか。萩原氏のBOPに軸足を置きながら、多国籍企業を活用する提案は興味深い。使いようによっては貢献できるかもしれないが、自ら進んでやるわけではなく、企業はインセンティブが与えられてこそそうする。政府、NGO、市民など他のアクターは「企業が開発に貢献するように行動するインセンティブを与えるために」どのように働きかけていくのか。

松本 それぞれが自身の立場を踏まえて発言され、議論が盛り上がった。私は多国籍企業の例を具体的に申し上げたい。Alliance Forumの原譲二氏は国連に乗り込んで、自分の事業に国連の旗を使うことを認めてもらい、アンバサダーの称号ももらっている。お金はレフタで運用しながら使っている。バングラ、ザンビアでは日本の大使がついてくるような立場にある。特別な植物(スピルナー)をビスケットにすると、牛肉よりカロリーが高い。学生を使って子供においしくないビスケットを食べさせている。組織的反発もあるが、企業であってもNGOであっても、行動する日本の組織がかなりの成果を上げている実例として紹介した。

三上 テロ対策にもODAが使用されるのであれば、ODAと直接関係なくともテロ拡大に影響ある武器輸出の全面禁止や核開発の政策などにも発言する必要があるのではないか。国会議員の中にも学者の中にも色々の動きがある。新しい動きがある中でSRIDが関与していくことが望ましい。私の希望はSRIDのメンバーが動ける場を作ってほしいということ。国連大学でBOPの話を聞いた。多国籍企業がこれまでいかに悪いことをやったか、というイメージがある。企業に対する評価、BOPをやる資格があるかが問題になるのではないか。フランスの水会社の実績はマイナス面が大きい。それを無視して多国籍企業のBOPを進めることには疑問がある。例えば「ネッスルはいい会社だ」という企業の基準が必要ではないか。

堀内 援助の新しい課題が次から次に国際場裏に持ち出される。援助産業独特の自己保全、営業活動である。その様なからくりに同調する必要はない。破綻国家やそのほかのアフリカ諸国でも貧困が根っこにあることはわかるが、サブサハラ諸国の貧困の原因は国内要因が大きい。植民地のくびきもあるが、国内要因がそれを助長している。マダガスカルなどアフリカにおける外国企業、政府による土地買収が進んでいる。日本もDACも何も言わないが、紛争のネタを作っていると考える。得をするのはアフリカの政治指導者だけである。
国内要因を学ぶ必要がある。国内紛争の原因は greedであり、grievanceは弱いと考える。反乱軍は資金が足りなくなると、資金を稼ぎ、また軍事行動に移る。パートタイム紛争をやっている。この資源の調達が市民を巻き込むので、紛争の被害は当事者のみでなく、無辜の市民に広がる。多国籍企業は利益の追求であり、有望な市場の寡占状態を作り出す。アフリカ企業の入る余地が無い。多国籍企業がアフリカの開発の答とは思えない。多くの国で多国籍大企業が深く根をおろして事業をやっている。
以前はアフリカの零細業者が大きな洗剤を小分けして売っていたが、今は大企業が小さなパッケージを売っている。多国籍企業が雇用を提供する場に立ち会ったことがない。MDGは持て囃されているが、住民に職を与えることはMDGに入っていない。いま貧困層が求めているのは職である。Make Poverty Historyのような運動は、善意であることは分かるが、彼らの生活の基盤は、貧しい人々から搾取を重ねて蓄積した富である。そのことを認識もせず、善人ぶっているのは許せない。

ケンネ 今アフリカで起きていることを話したい。第1に、アフリカを訪問した人にアフリカがどう見えているかをききたい。第2に、アフリカは20%の富裕層が援助の対象である。残りの80%の中でNGOも動いている。援助政策は紛争を継続させる方向に動いている。BOPはいいチャンスではないかと思うが、政府の政策を考慮しなければチャンスはない。池田氏の言うように100以上の日本のNGOが頑張っているが、Informal sectorに入ってしまっている。政府と付き合いたくないという気持ちだろう。私が主宰するDAPAD Foundationは政府を無視すると活動できない。昔はJICAとケンカしたが今はそんなことはない。アフリカは特殊で矛盾が多い地域である。日本の動きはいい。しかしアフリカで何が起こっているか、本当にわかっていない。

二神 私は世銀のマスコミ・プロジェクトに20年間いて、アフリカの高級官僚ともつきあったが、なかなかグラスルーツの中に入って話はできない。NGOにグラスルーツの役割がある。世銀の会議でSAL(構造調整融資)と言い出した頃からエコノミスト的な発想が増え、プロジェクトへの融資が減ってきた。New liberalistがSALを契機に世銀を腐敗させたと思う。アフリカの国は歴史的に弱い体質が外部にさらされ、知らず知らずのうちに過ちを犯すような体質になった。それを外から押しつけられたというのは酷である。企業は利益追求が本質である。食い尽くそうという体質にかわりはない。粉ミルクの原料など、振り返っても多国籍企業のエネルギーにはお手上げだった。その反省なしに企業に期待するのは反対である。
ハイチは脆弱国家の典型である。効率の悪い独裁体制を作り上げ、中から直す力がなかった。アメリカ、イギリス、フランスにやられた。典型的なアフリカの運命をみる思いだ。それをなんとか中から自発的に直そうという気迫を国家の中に作らないと、千年河清を待つことになる。エイズ対策でよい薬を必要なところに届ける政策は評価している。

松井 脆弱性に2種類ある。日常的な貧困と非日常的な災害などに分けられる。私は人間の安全保障などの議論にかかわることはなかったが、日常的な欠乏にかかわってきた。これから日本はどのように脆弱性にかかわっていくべきか。どのような脆弱性にかかわっていくことが日本として重要なのか。紛争地域なのか、貧困地域なのか。考えを聞かせていただきたい。

藤村 今日のテーマについてコメントしたい。従来日本の開発援助は総花的かつばらまき的で、特色がなかった。開発協力のいろんなイニシアチブに迎合し、引っ張られすぎてきた。今日のように援助資源が限られている場合には、特色ある開発協力を戦略的に進めていくべきである。例えば、経済成長の促進と環境保全を促進するといったような二つの援助戦略を受け身でなく、積極的に推進すべきと思う。有償、無償、技術協力といった援助スキームをうまく組み合わせ、マルチとバイの援助を効果的に使い分けるなどして、インパクトを与える効果的な援助をすべきである。マルチの援助に対してはまったく援助戦略がない。
最後に荒木さんが提案されている提携型協力は、三角協力といわれているもので、今後大きな流れになると思う。少ない資金でインパクトを大きくするというのが特徴である。しかし、三角協力において日本がリーダーシップをどこまでとれるか、というのは課題である。一般的にはJICA職員は忙しくて、提携型援助には後ろ向きと聞いている。他方、現在JICAが進めているアフリカの米倍増計画は、日本の技術と資金を発揮できる、という数少ない提携型援助の良い例である。このようなイニシアチブを環境分野にも広げて、集中的に供与することができないだろうか。総花的になっているところを仕分けして、選択と集中をうまくやるようにすべきだ。
「新しいODAを考える会」が30の提言を行ったが、それらはその後どうなったのか。それらの提言が実行されれば特色ある援助が実現されるのではないか。
 
荒木 意味がなかった。

高橋 SRIDらしい議論になった。パネリストは1人2〜3分ずつ応答してほしい。

太田 開発コンサルタントのクライアントは外務省、企業など色々ある。批判されてもご飯は食べていかなければならないので心苦しい。多国籍企業が叩かれていたが、基本的に企業は利潤の追求である。ここに工場を建てるために道路を喜んで作る。企業のインセンティブでいいことができる。選択と集中は経産省、外務省にお任せするしかない。災害復興は日本の強さであり、初期にインパクトがある。ハイチの地震やチリの津波など緊急対策は早く的確にやるほうがインパクト、プレゼンスが大きい。短期間でインパクトのある投入ができるようにJICAに体制を作っていただきたい。

神田 河野氏の疑問にまず答える。新たな段階でも、有償資金協力はインフラ整備として継続するが、個別に整備するよりは、アジアハイウエイ、東西回廊など、広域的な視点でインフラ整備をやっていく。資金を借り入れる方も政府借款でやるより、財政支援、セクター支援を望んでいる。インドネシアへの気候変動ローンによる財政支援は200億円規模。1期、2期、ソフト型円借款も出ている。草の根無償なども継続している。科学技術協力、留学生の受入れ、問題解決型の技術協力、政策支援型協力を残して、第2世代型の方法に組み込んでいく。
松井さんのコメントにある、脆弱性の日常性と非日常性は密接な関係があり、一つのものとして考え、厳密に分けなくてもよいのではないか。

池田 松井氏の質問に対して、貧困者に援助することに中心をおくべきと考える。また、個々人のキャパシティーが向上すればリーダーシップはいらない。中央集権的に誰かが引っ張る必要はなくなる。たとえば、屋根に取り付けた太陽パネルや、田んぼの灌漑用水路の段差を利用したミニ発電が普及すれば、原発は3つくらいいらなくなるようなものだ。世界中の人々のキャパシティーを向上させることに力を注ぎ、リーダーシップの必要のない世界を作っていきたい。G to Gでいくらお金をつぎ込んでも貧困はなくならない。地に足のついた人間開発を目指すべきである。NGOとして政府と草の根の人々を結ぶ活動を続けたい。
また、多国籍企業は悪の権化としか思えない。現状で多国籍企業に期待するとけがをする。やっていることは一見いいことのように見えるが、一皮むけば全く趣旨が違っていることが多い。BOPなどに新しい主体が作れるならその方がいい。たとえば第4セクターといったものを形成して、政府と民間をつなぐことができるかもしれない。こういうときにNGOが力を発揮することができるだろう。新しいパラダイムを作らないとだめだ。日本の某化学メーカーがWHOやUNICEFのお墨付きをもらって、アフリカで農薬を練り込んだ蚊帳を配っている。マラリヤ撲滅のためにDDTを撒きましょうとも言っている。途上国の脆弱な人々の健康を害することはわかっているのに、抵抗は至難を極めている。
開発に限らず、ものごとは自らが強く望まなければ絶対に実現しない。それは政府も個人も同じ。どう仕掛けるかがNGOの腕の見せ所である。

萩原 あえて火中の栗を拾うのはどうかと思っていたが、個人の立場で主張した。意図は達成できた。ケニアで支援していた中小企業の隣にコカコーラがあり、目障り、悪の元凶というイメージはあった。発想を変えることがBOPの出発点である。日本は欧米に比べてだいぶ遅れているというが、あえて異論をはさみたい。私は密かに日本がBOPに貢献できると思っている。例えばヤクルトが途上国で行ったビジネス戦略。初めて進出したのは1964年であった。その時点でヤクルトがやったことがBOPビジネスにつながった。その後、ブラジル、フィリピンに進出した。営利追求に違いないが、世界中に36,000人のヤクルト・レディがおり、給料が通常の1.8倍から2倍である。しかも予防医学につながっている。発想はBOP的な発想であっても、日本の商習慣から考えて、本当のCSRに近い活動をしているように見える。日本の多国籍企業は利益追求と同時に貧困削減に貢献する余地がある。

荒木 BOPについて経産省の研究会に参加し、報告書もできた。経産省がBOPをやるとは驚いた。GDP/人が3000ドル以下の国をターゲットにしている。重要なボリューム・ゾーンである。経産省も行き詰っている。NGOを集めてゴチョゴチョやっていた。現場を知っているのはNGOしかいない。住友も蚊帳は作っているが、実態はわからないと言っている。国がうまくサポートして、NGOとうまくリンクするファンドかスキームを作ってはどうかという話があった。芽出しのところでNGOのアイディアをもらう。ところが、経産省がNGOのアイディアを集めるのは馬鹿げているという意見があった。面白いことにBOPにはUSAIDのGlobal Development AllianceもCSRが噛んでいる。CSRの中でマーケットの可能性のある部分がでてくる。儲けながら貢献できれば、というのが企業の本音であろう。
 
高瀬 藤村氏の質問に答える。「日本のODAを変える会」は荒木氏が議長をやり、私もメンバーであった。7,8人の幹事でつくったものが62人に増えた。国会議員、NGO、SRIDを含め、日本の右翼から左翼まで全部集まった。もう一度3月か4月に集まり、岡田外務大臣、鳩山首相に提言することになっている。このことを一石として投じておきたい。

高橋 今日は密な議論ができてよかった。まとめではなく私の感想を述べる。各人の発言に共通しているのは、20年前に冷戦が終わった後、日本は冷戦型でない開発協力に努力してきたが、「これまでのbusiness as usualとは決別すべきだ」というメッセージである。一方、開発協力については貧困をどうするか、ネイション、ステートをいかに強固にするか、個人のキャパシティ・ビルディングをどうするか、という60年前と同じ課題が山積している。その上で5点述べたい。
@ 出発点は日本がこうした体たらくでODAが半減した。その中で、改めて開発援助を問うてみる必要がある。頭で考える、心で感じる、「もうかりまっか」という部分。50年前は当然と考えられていた開発協力をもう一度問い直すことが出発点である。
A もし前向きの方向が出てくるとすれば、日本は半世紀にわたってアジア諸国と協力して、プラスのものを生んできた。援助には珍しいことだ。日本がやってきたことを検証することが2番目のポイント。
B 世界のインバランスの最たるものとして、政治的、軍事的共通の課題として「脆弱国家」が出てくる。アジア諸国と共通して築いてきたものをどう生かすか。共通アセットを使って貢献できる分野はなにか。
C 企業活動に対してプラス、マイナスの意見が出た。「企業と開発」は恒常的なテーマである。マイナス面もあるが、疑いない要素としてエネルギー分野では企業が主体とならざるをえない。両者を認識したうえで、開発協力にどういう仕掛けを考えればよいか。これまでは教条主義的であった。マイナス面をどうやって最小化するかが課題である。
D これからの開発協力のスタイルとして、水平型の視点がほのかに見えてきた。これまでは垂直型で進めてきた。水平型の協力関係を構築していくには新しい視点が必要である。マルチ機関の活用、NGOの中心的な役割、企業の役割、マルチアクターの水平的役割などの視点に慣れた人の力が必要。
これからは多分に若者に期待したい。われわれはいかにそれをエンカレッジしていくかが課題である。この5点が特に心に残った。(第2部 了)