SRID Newsletter No.408 January 2010

プノンペン奮闘記―社会を調査すること―

SRID学生部代表
東京大学大学院総合文化研究科修士1年
松井 梓

途上国に関わる仕事をしていたり、何らかのかたちで途上国に関わっていたりする方であれば、何かを明らかにする目的で現地に赴き、人々に直接質問をするという作業を経験したことがあるのではないかと思う。その際に直面する壁は、「どうしてこうも、伝えたいことが伝わらないのか」というもどかしさなのではないだろうか。こちらの言うことが相手に伝わらない。そして相手の言うこともこちらに伝わらない。相手の言葉が理解できなかったり、現実味をおびて実感できなかったりするのである。

もちろん、言葉の壁もあるだろう。少なくともどちらか一方が母語を使っていなかったり、通訳を介したりすれば、発せられる言葉のニュアンスは受け取られ方によって多分に解釈され、変化する。だが、「伝わらない」要因はそれだけではないように思う。恐らく一つの原因は、多くの場合先進国の調査者と、途上国の被調査者の間にある、言うなれば「社会的につくられた価値観の違い」ではないだろうか。調査や質問という行為は、調査者と回答者の間のお互いの解釈で成り立っている。調査者の言葉を回答者が解釈して回答する。そして調査者は、回答者の答えを聞き取って解釈する。この、お互いの言葉を解釈する相互作用の過程で、相手の言葉を自分の価値観で解釈してしまった結果、相手の言葉の意味にバイアスをかけてしまい、本来意図した意味と異なる意味で相手に受け取られてしまうのではないだろうか。

私は、学部4年次に約2ヶ月、そして大学院修士1年次に2週間ほど、カンボジアの首都プノンペンにおいて論文執筆のための調査を行った。何をするにも初めてのことばかりで四苦八苦していた記憶ばかりで、今振り返っても楽しい思い出は正直に言ってあまり多くはない。

どちらの調査の際も、現地に着いた後まず学生10名程度を集めて通訳チームを作った。私の調査対象たち(人力車のドライバー)は英語がほぼ話せないし、私もカンボジア語には明るくないので、彼らに英語を介しての通訳を依頼するためである。学生たちに調査の趣旨や内容やスケジュールを伝え、ドライバーたちへ口頭での質問形式でヒアリングを始めた。このヒアリングの目的は、本調査に先立つもので、本調査をする意味があるのかを確認することだった。事前に持っていた自らの仮説の妥当性を検討し、その仮説に基づいて本調査を行ってよいのかをチェックするのである。私が自分の仮説についてここで確認したかったのは、ざっくり言うと、「彼らのプノンペンでの生活において、周りの人々のネットワーク(親族・友人・知人等)から得るサポートはどの程度重要なのか」というものである。これらの問いに関してドライバーたちに質問をし、ある程度の結論を導かなければ本調査に移れない。そしてこれは一見簡単なことのように思えるのだが、実際にはとても奥が深く難解な作業であった。

上記の問いを持って、私は通訳の学生たちを介しドライバーたちに質問を始めた。いくつか核となる質問を用意し、あとは必要に応じて会話の流れの中から情報を得ようと考えていた。しかし、1人に尋ね、2人に尋ね、10人に尋ねても、どうも返って来た答えがぼんやりしていて、納得できない。返ってくる答えはそれぞればらばらだったし、答えも私にはいまいちリアリティが感じられない。

例えば、「お金を借りる」という他者からのサポートの相対的な重要性を明らかにするため、「あなたにとって、誰かからお金を借りることは重要なサポートですか?誰かに悩みを相談すること(これも重要なサポートの一つであると挙げられていた)と、どちらがより重要なサポートですか?」と尋ねてみた。そして、あるドライバーからは「悩みを相談する人だ。お金は頑張れば稼げるからだ」という答えが返ってきた。またある人は、「返済ができなかった場合信頼関係が壊れることになるため、私はそもそも他人にお金は借りない。」と答える。どちらの答えからも、回答者は「お金を借りる」という行為には消極的であることが伺える。しかし、「お金を借りる」という行為をどのように捉えているかは、一人目のドライバーと二人目のドライバーで違っている。一人目のドライバーにとって、「お金は借りる必要のないもの」と捉えているのに対し、二人目にとっては「お金は借りてはいけないもの」なのである。この違いはなんなのだろうか。この違いが生じる要因を、どう理解すればよいのだろうか。「お金を借りる」という行為について、何らかの統一的な意味や意義を探したかったのだが、全く異なる回答に、これらの答えをどう解釈してよいのか分からなくなっていた。

恐らく、どちらの答えもそれぞれ正しいのだと思う。より厳密にいえば、どちらの答えも正しいが、どちらの答えがより適切になるのかはドライバーが置かれる個別的な状況によって異なるのではないだろうか。一見相反しているように見えるそれぞれの答えは、恐らく共通の大きな社会的な価値観全体の中に包含された部分集合のひとつひとつなのであって、それぞれの答えが何を意味しどう位置づけられるのかという解釈は、そもそも「お金を借りる」という行為そのものが彼らの社会においてどのような意味を持つのかという、二つの答えを共通して貫く社会的な価値観の全体像を把握して初めて分かることなのではないだろうか。例えば、これはまだ私の想像に過ぎないのだが、カンボジア社会には、「お金を借りる」という行為について「お金は他人に借りない方がよいものである」という、社会の規範的な価値観があるのではないだろうか。これをベースにしつつ、一人目のドライバーの場合は比較的安定した収入があるため「お金は借りる必要がない」となるのに対し、二人目のドライバーは収入が安定せず借金の必要に迫られているにも関わらず、信頼を得られず借りられる相手がいないため「お金は借りてはいけないもの」となるのではないだろうか。「お金は他人に借りない方がよい」という社会の上位概念としての規範は、それぞれの人が置かれている状況によってその人が「お金を借りる」という行為に多様な意味を与えるのである。「お金を借りる」という行為がその社会でどのような意味を持つのか、その多様な側面を彼らの視点から全て理解して初めて、一見異なるように見える回答に共通の価値観が見いだすことができ、それぞれの回答を彼らの視点で解釈できるようになるのである。

この、その社会ひとつひとつで事実や行為が何を意味するのかを、その社会が持つ全体的な価値観と照らし合わせて検討するということは、言うのは易いがとても難しいことだと実感した。人々の言葉を理解するには、まず人々の価値観の全体像(ここでは意味世界という言葉を借りる)を理解し、それを基準に人々の言葉を認識しなければならない。この、「人々の意味世界を理解する」という行為が、我々と全く異なる意味世界を持つ途上国においてはしばしば難しいのである。

しかし、この途上国社会である社会的事実が何を意味するかを把握することは、研究者にも、そして援助実務に携わる人にも必要とされている視点である。先進国の研究者やドナーからの視点で現地を解釈すべきでない。そのようなことを試みても、現地の様々な事実や行為を構成している意味を見えなくするだけである。困難であるからと言って諦めることなく、私は途上国と真摯に向き合い現地の視点や価値観で多くのことを理解できるようになることを目指し、残り一年の研究生活を充実させたいと思う。

(了)