SRID Newsletter No.402 May 2009

アフリカの持続的発展と農村地域の女性に対する教育機会の拡大

―映画「母たちの村」を通して考える―

創価大学 鈴 井 宣 行

 今、本橋監督の「バオバブの記憶」という映画作品が好評を博している。筆者も東中野にある小劇場(ポレポレ東中野)で鑑賞したが、単なるドキュメンタリーではなく、そこには「生活」がしっかりと描かれていた秀作である。近年、数は少ないが、アフリカの人々の生活に関わる、それも西アフリカに関わる作品が我が国で上映されていることは大変喜ばしいことである。
 2007年末ごろに、あるアフリカ・セネガル映画上映に関して、東京外大AA研の小川 了教授が小生を岩波ホールの岩波律子支配人に紹介してくださり、同支配人から筆者にお話があった。このご縁で、同映画上映に筆者も少し関わらせていただいた。その映画こそ、現代アフリカを代表し、2006年6月にセネガルの人間国宝に指定されたセンベーヌ・ウスマン監督の作品「母たちの村」(原題:Moolaad?「聖域あるいは保護」)であった。センベーヌ監督とは筆者が日本大使館広報文化担当官として在勤の折り、何度かお会いし、また大使館主催の「俳句コンクール」の講評も行ってくださり、大変親日的な方で、日本にいらっしゃったこともあった。同監督は小説家としても一流の方であり、筆者は「センベーヌ文学」を研究対象としていたのである。そして、2006年10月から半年間、客員教授としてダカール大学で調査研究をした折り、久しぶりにご自宅でお会いし、お話を伺った。当時、ちょうど一時退院されて、ご自宅に戻っておられたので、非常に幸運であった。しかし、帰国する前に、ご自宅に伺った折りには、面会は叶わなかった。その後、すぐに再度入院され、2007年6月に逝去された。
 センベーヌ監督の本作品に一貫して流れる表のテーマは「女子割礼撤廃(FGM)」であり、本作品についてはいくつかの評論がなされているが、筆者は「女子割礼撤廃」とは別の角度、つまり裏のテーマとも言えるであろう「女性に対する教育」という側面から考えてみることにしたい。というのは、センベーヌ監督は常々、「国、地域の発展にとっての女子教育の重要性」(傍点筆者)を訴えておられたからである。
 アフリカにおける「女子割礼」は《伝統》という美名のもとに年端もいかぬ多くの女の子たちがこの《手術=お清め》によって、その尊厳性を奪われ、さらには命まで奪われるという悲惨な状況が現出してきたのである。これは《人間生命の尊厳》から考えると、伝統ということだけでは済まされない問題である。アフリカの、殊に農村部地域においての女性の役割、地位は《伝統》という村の秩序の枠の中で家庭をしっかりと守ること、そして、夫を立て、夫に従うことであった。このことが女性たちを「《教育》の場」から遠ざけていったのである。それ故、女性たちにとっては、社会生活、あるいは経済活動をする上での知識が極めて脆弱なものとなってしまったのである。
 これは何もセネガルだけではない。戦前の我が国―現在でも一部、このような偏った意見の持ち主も見受けられるが―でも極端に言えば、女性に教育は不要(傍点筆者)という、アフリカと同様の考え方が存在していたのは周知のことである。しかし、アフリカの女性たちにとって、「教育」は極めて重要な課題である。ことに、彼女たちに対する「保健衛生」に関する教育は不可欠である。女性たちがこの分野の知識をしっかりと学んでおくことは、乳幼児の死亡率の高低に大きな影響を与えるのである。女性自身にとって、本作品に表現されたように如何に「割礼」というものが心身ともに傷つけ、最悪の場合、死に至らしめるかを「学んでおく」ことは当然の如く必要不可欠なことである。そのためには、アフリカの女性が賢明になることこそが強く求められる。
 筆者が研究対象としているセネガルにおいても近年、女性の活動は極めて活発になってきている。零細小規模経済を中心とした経済活動はまさに女性の独壇場とも言える。筆者が奉職する創価大学の創立者である池田大作氏は「女性の力は大地の力であり、大地が動けばすべてが変わる」と力強く述べている。ここには女性の力に対する尊敬と期待の念が込められている。今、アフリカに必要なものはまさにこの女性力(傍点筆者)であろう。
 この女性たちの経済活動や政治活動など種々の活動が今後さらに拡大していける環境を整えることが地域の発展、活性化に直結していくと考えている。閉鎖的な農村地域では、伝統を極めて重んじるが故に、新たな行動を起こす者に対しては村八分的な扱いをする傾向がある。戦前戦後の我が国でも同様であった。アフリカの農村地域ではなおさらのこと、この女性たちの考え、意見を積極的に取り入れていく必要があろう。
 映画に話を戻そう。センベーヌ監督の「決して女性は低い位置にあるものではありません。(中略)女性を組み入れていかないかぎり、正常な未来の発展はありません」という言葉のとおり、本作品の主人公コレは村の未来のために、少女を守り、雄々しく、かつ逞しい村の悪しき習わしを止めさせるために戦いの《のろし》を上げるのである。村長他、村の長老たちは女性たちの情報源であるラジオを焼却してしまう。これは外からの情報を遮断し、女性(妻)たちを「無知」という状況の下で、管理していこうとする長老たち、村の為政者の姿勢にほかならない。薪を頭に乗せて運ぶサナタが燃えるラジオを見ながら、「私らはみんな無知なんだよ」と言う。女性が教育を受け、賢明になることこそが悪しき伝統を打ち破り、当該地域の持続的発展のための《最大の武器》となると確信している。
 センベーヌ監督は本作品の最後でつぎのように述べている。
 「女性は生命を生む。だから、女性達に敬意を払おう。だから、言いたい。女の子が生まれたら、ぜひ教育を受けさせなさい。立派な花嫁になるために、ぜひ学校に行かせなさい。」
この言葉こそが彼の心の奥底から叫び声なのである。
 ただ、「立派な花嫁になるために」という言葉は、単に家庭においてだけではなく、地域社会における花嫁(傍点筆者)と捉えるべきであろう。